桶の王国小豆島
小豆島醤油

小豆島醤油の歩み

小豆島醤油の起源は、記録には残っていませんが、通説では文禄年間(1592~1595)と言われています。小豆島では、中世以前から製塩業が営まれ、元禄時代の生産量は赤穂に次ぐ第2位でした。しかし、江戸時代後期になると瀬戸内海各地で生産過剰となり、塩を主原料として活かす事の出来る醤油業へと転換するようになりました。また、当時の輸送手段は、船が中心であり、海上交通の要所であった小豆島は大豆や小麦を手に入れやすく、島外に売り出しに行きやすかったこと。温暖少雨な気候が醤油造りに向いていたなど、様々な要因が小豆島の醤油業の発展を促しました。

  • 1. 小豆島醤油の始まり

    醤油造りが始まった文禄年間の小豆島では、大阪城築城の石材を諸大名が切り出していました。石を取りにきた採石部隊が持っていたのが「醤油」の前身。紀州湯浅に鎌倉時代に伝わった「金山寺味噌」から出た上澄み液です。諸大名が調味料として珍重していることに我々の先祖が興味を持ち、湯浅まで製法を学びに行ったと言われています。

    小豆島醤油を島外に出荷したという記録で最も古いものは、文化元年(1804年)のもの。小豆島安田地区の高橋文右衛門が大阪の島屋新兵衞に醤油を商品として出荷したと記されています。この時期を機に小豆島醤油の出荷先は都市を中心に各地へと広がっていきます。

    元祖醤油の伝達 江戸時代後期から島外出荷を強化
  • 2. 小豆島醤油が発展した理由

    (1) 塩造りの有力な産地であったこと

    醤油業が始まる前、小豆島では醤油の原材料である「塩」を盛んに造っていました。「最も潔白にして美味なり」「島塩」と高く評価され、元禄時代は赤穂に次いで、全国で2番目の生産量を誇るまでになり、綿や米相場の基準ともなっていました。しかし江戸時代後期になると瀬戸内海各地で生産が増えて余るようになり、さらに塩を生産する時に使う火力の強い燃料木に限りがあったことから「塩」そのものでは収支が合わなくなり、塩を原料とした醤油業へ移っていきました。

    可能性ある産業「醤油」
    (2) 立地条件と海運業の発展

    商港「堺」、天下の台所「大阪」に近いこと。また、もともと海運業が盛んに行われていて、造った醤油の大消費地への出荷が容易だったことが小豆島醤油を発展させた最も大きな要因です。当時は陸上輸送(荷車)より海上輸送(船)の方が圧倒的に有利でした。

    大消費地大阪へ出荷
    (3) 九州との交流

    古くから海でつながる九州と交流があり、素麺や塩は九州へ移出し、醤油の原料である大豆や小麦は九州から移入していました。そして、今も九州産の原料をよく使っています。

    九州と交流
    (4) 耕地面積の狭小

    小豆島は山が多く、耕地面積が少ないため、米穀の自給自足は不可能です。そこで塩や醤油、素麺を京都・大阪・九州に出して貨幣に換え、米麦食料を島外から購入して生活を成り立たせていました。

    耕地面積の狭小
    (5) 島民の開放性・進取性

    小豆島島民の目は常に海の彼方に向き、古くは倭冦の一員として中国や朝鮮の沿岸を馳駆した人もいたり、島原の乱鎮定に加子として出向した人もいたようです。 近世の初めからは塩廻船が大阪や九州と島の間を絶え間なく住来して、奥州や九州の諸大名の米や諸物資を江戸や大阪にしばしば搬送しました。また、大阪城築城用の石材などを乗せる石船も運行していました。
    こうして島民の耳や目はおのずと島外に向き、進取の気性を持つようになりました。

    島民の開放性・進取性
    (6)天領小豆島

    江戸時代の260年間、小豆島は一部の地域を除いて幕府の直轄地、つまり天領でした。藩の奨励も保護、冥加金の上納もなく、比較的自由な支配の元にあったため、新しくできた農間企業について、格別な保護や規制も受けなかったことが島醤油を発達させる上で有利に働いたようです。

    天領小豆島
    (7)気候風土

    小豆島の高温乾燥性と清澄な空気が、麹菌の発育や醤油諸味の熟成にとても適してたことが、醤油製造の上で有利に働きました。

    以上の諸条件が揃っていたことから、醤油の主産地の1つへと発展しました。

    気候風土
  • 3. 小豆島醤油が島外に広がる

    江戸初期より、自家消費、島内での消費が主だったように思われますが、寛政年間(1789~1801)になると、京阪神への出荷が盛んになり、小豆島醤油の醸造石数が著しく増加、万延年間(1860~61)以降には、島の重要産物として広まっていきました。 さらに、明治維新による資本主義社会の波にのって目覚ましく発展しました。 販路も京都・大阪・神戸はもちろん、広島・高知・愛媛・九州まで及び、明治11(1878)年から19(1886)年頃まで島の醸造家の数は約400戸に達し、その仕込石数は35,000石と、明治初年に比べ、倍増しています。

    小豆島醤油を島外に出荷したという記録で最も古いものは、文化元年(1804年)のもの。小豆島安田地区の高橋文右衛門が大阪の島屋新兵衞に醤油を商品として出荷したと記されています。この時期を機に小豆島醤油の出荷先は都市を中心に各地へと広がっていきます。

    小豆島醤油が島外に広がる
  • 4. 醤油業界の地盤を固める

    醬油業界が発展するにつれて、粗製乱造、乱売に手を染める島内業者が現れたため、明治11年に醤油業者を取り仕切る「栄久社」を設立。粗悪品の出荷を牽制し、島醤油の品位を確保しました。また、当時大阪の業者に販売しても代金の延滞に苦汁を飲まされていたので、栄久社が交渉して業界の維持に努めました。しかし大阪商人との交渉は容易ではなく、さらに税金が重く課せられるようになり、零細な醤油業者は耐え切れず、こののちには163軒まで減少しました。

    幸い明治27(1894)年〜明治28(1895)年の「日清戦争」によって日本全体の景気が改善し、醤油の売れ行きが回復するにつれ、醤油業界も徐々に立ち直りました。 この流れをきっかけに「栄久社」のメンバーを中心とした「小豆島醤油製造同業組合」を明治34(1901)年に結成。足並みの乱れがちだった島内の醤油業界も材料の精選、醸造法の改善、特に得意先問屋との取引の合理化に組合員が団結して取り組み、小豆島醤油の地固めをしていきました。

    醤油業界の地盤を固める
  • 5. 醤油醸造試験場により品質向上

    小豆島醤油製造同業者組合は、品質向上を目指し、技術者を集めて幾度も醸造法を改良したり、機械化を図ったりしましたが、関東醤油などに比べるとまだ劣っていました。
    小豆島醤油の品質向上には「県立醤油試験場」を設立する必要があると痛感し、醤油醸造家の木下忠(のち忠次郎)氏は、醤油業が盛んな苗羽地区の村長・岩部亀士氏と共に試験場設立運動を始めます。

    「県立」の試験場とするには香川県議会に諮り承認を得る必要があり、採択までの間の試験場として、明治38(1905)年に「同業組合立醸造試験場」を苗羽村に設立。埼玉県出身で東京帝国大学の大学院で醸造学や発酵科学を専攻していた清水十二郎氏を技師長に迎えました。明治40(1907)年に「小豆郡立醸造試験場」と改名し、次いで明治43(1910)年に、目標であった「県立工業試験場」にすることができました。試験場が設立されてからは醸造法の科学化・工業化が促進され、小豆島醤油の品質も向上していきました。

    醤油醸造試験場により品質向上
  • 6. 小豆島醤油率いるマルキン醤油

    日露戦争後、日本は資本主義社会の躍進期でした。小豆島の醤油は試験場のお陰で品質を高めることができたものの、関東醤油に匹敵する最上醤油を世に出すのは、小資本の個人企業では無理でした。

    そこで島の醤油業者を集めて協議会を開き、小豆島醤油100年の大計のため関東の最上醤油と並び称される最高品質の醤油を造って販売しようと、明治40年に「マルキン醤油」を設立させました。
    「マルキン醤油」では醸造試験場の科学的成果を最大限に活かして品質を上げていくとともに、従来、軽く見られがちだった広告宣伝にも力を注ぎました。

    その後、醤油業界の競争の荒波にのまれながらも昭和初めには、関東のキッコーマン・ヤマサ・ヒゲタ3印に加えて、4印メーカーとして評価され始めました。

    小豆島醤油率いるマルキン醤油
  • 7. 機械化・協同化

    敗戦後、経済界は混沌としてインフレーションによる諸物価高騰が激しく、醤油業界も原料を手に入れるのは困難でした。そこで戦時中以来使用され始めた、アミノ酸液を原料に造る化学醤油製造をするしかなく、従来の本醸造製造の醤油は一時姿を消しました。

    日本各地の醤油業界で機械を導入し、大量生産体制が進むと価格競争が激化。価格は下がっていき、機械を導入できない小豆島の小さな醤油業者は継続が困難になりました。そこで品質向上・後継者確保・省力化を目指し、資本を出し合って協同化していくことになります。

    昭和23(1948)年には麹を造る機械を導入した「小豆島食品工業協同組合(昭和26年に「宝醤油工業協同組合」に改称)を設立し、組合加盟企業が持ち寄った原料を協同工場で加工、麹造りまでを協同工場で行い、出来上がった麹は各社に持ち帰って仕込み始めました。

    また、島内の大手業者も島の醤油を強くしようとしてマルキン醤油と合同していきます。また、大手が抜けたことによって体制が弱くなることを防ぐために、昭和41(1966)年に武部吉次氏が「タケサン」を設立。昭和47(1972)年には「タケサン」を中心とする8社が加盟して近代設備の協同工場「島醸」をマルキン醤油清水工場の跡地に設立。麹造り、発酵・熟成、圧搾までを行い、搾った「生揚げ(きあげ)醤油」を加盟した会社に出荷し始めました。

    機械化・協同化
  • 8. 佃煮製造業発展

    太平洋戦争後、敗戦によって人々の心は疲れ果て、極端な物資不足の中でも、特に食糧事情の悪化は甚だしいものでした。島内の醤油業も戦中戦後の原料不足のため、なかなか以前の生産量までには回復しませんでしたが、主要産地として若干の余裕があった事から、醬油を利用して少しでも食生活の充実を図ろうとした企画が醬油業者の間で考案されつつありました。昭和20年9月26日、舟山醬油を母体として大黒屋商店が創設され、さつま芋の蔓を炊いた「葉柄佃煮」を発売、都会で人気を博し、大ヒット商品になりました。その後佃煮業界は発展を続け、現在に至っています。

    8. 佃煮製造業発展